2010年3月28日日曜日

ふくやまマラソン 地獄を見た!

3月22日のふくやまマラソンでハーフに参加してきた。
トレーニング皆無、体重過去最高値、先週からののど風邪・発熱という三重苦の中、心は完全に「棄権」に傾いていたのだが、子どもの3kmの走りを見ていて生来の「お調子者気分」に火がついてしまった。
会社のW君、そして新卒入社のもう1人のW君に内緒でスタートラインに着き、直前で参加を告げてびっくりさせた。
そしてスタート。この日はとんでもない強風で川上から激しい風が吹き付けてくる。ならば川下に向かうときには追い風になって楽かといえばそうでもない。トレーニング皆無・過去最高の体重がすぐにきしみをあげる。スタートからわずか2km地点で左くるぶしが、更にしばらくすると右くるぶしが、続いて左ひざ、右ひざと次々に痛みが襲ってくる。ようやく河口付近を一周してスタート地点に戻ってきたときには本気で「途中棄権」を考えたが、ここまでくれば意地だというわけで走りつづけたが、中間点ですでに1時間数分経過、おととしの時には一時間を切っていたのだから相当の遅れだ。それでも懸命に走り続けたが、後半の箕沖の上りでひざがついにダウン。体重を支えきれなくなって激痛が走ったのだ。そこからは少し走って長く歩いての繰り返し。
屈辱的なことに、ラスト3kmで時間オーバーで失格となった。後片付けの進む中、何とか2時間40分あまりでゴール。準備不足は自分のせいだが、意思の力で完走(最後はほとんど歩きだったが)した自分を誉めてあげたい。
事前に走りこみをしていたW君は2時間28分でギリギリ完走。新人W君はわしと肩を組みながらゴール。
強風で顔の汗が乾燥して、顔面全体に塩が吹いていた。その量もはんぱではない、料理一人前程度ならできそうなくらいの塩である。
おそろしやハーフマラソン。
しかし、たまにやる「限界越え」。これって本当に良いものである。

2010年3月12日金曜日

わしってうつ病だったの?

水曜日の午後から関節が重く、喉も痛い、体温を測ったら熱があったので早退。翌朝病院に行ったら扁桃腺に膿がびっしりついているという。薬のおかげですぐに体温は下がったが、無理は禁物というわけで昨日、今日と会社を休むこととした。
休むといってもダラダラ過ごすのももったいないので、読書三昧とした。
この三日で読んだ本は、
安岡正篤「論語の活学」
朝倉慶「裏読み日本経済 ~本当は何が起きているのか~」
喜多川泰「手紙屋 ~僕の就職活動を変えた十通の手紙~」
清水克衛「「ブッダを読む人」は、なぜ繁盛してしまうのか」
小西浩文「生き残る技術 -無酸素登頂トップクライマーの限界を超える極意」
鳥居祐一「スピード・ブランディング」
本田直之「レバレッジ時間術」
小宮一慶「ビジネスマンのための「読書力」養成講座」
の計8冊。
間にDVDで「プロが教える成長株と勝ち組株の見抜き方」を見たりもした。
続けて今読んでいるのが、
P・F・ドラッカー「エッセンシャル版 マネジメント」
森信三「修身教授録 ~現代に甦る人間学の要諦」
などという結構固いものであるが、このような固いものをじっくり咀嚼しながら読むというのは頭にも良いような気がしている。


ところで、病院は近所のT胃腸科内科に行ったのだが、診察中にカルテを何気なく見ていると「H12.12.18 うつ病」と書いてあった。
えっ?わしってうつ病だったの?と驚いたが、よく考えてみてもそのような記憶はない。これは一体どういうことであろうか。
大体、この病院には二三年に一度風邪やらインフルやらで行くくらいで、精神的に参ったなどという理由で行ったことなどない。というか、そのような状態になったこともないのである。
されば何故?謎は深まる。

2010年3月3日水曜日

マウンテンバイク朝練

抜釘手術から3週間、完全復活ということで、今日は朝6時から山手に朝練に行ってきた。山手のファミマでサカイさんと合流。よっしーと3人だが、登りになるとどんどん遅れる。体が全然ついていかない。肺が苦しい、痰だけがやたらに出る、苦しいよーと思っているときにふと見ると、見事な朝日が!


少し元気になって上っていく。
疲れきって萱野山のハンググライダーの離陸場に着くが、素晴らしい眺望だ。疲れが吹き飛んだ。
標高は269m。


下りはほとんど林道だったが、週末の雨の影響か、ぬかるみまくっており、下るのには苦労した。もっとも、ぬかるんでなくとも、怪我でチキンになっておるわ、もともとテクはないわで、あまり変わりはなかったのだろうが、十回以上押して歩いたのが少しは減ったかな。
徐々に慣らして、チキンを治し、テクを磨いて、下まで歩かずに乗り切ってみたいものだ。

8時過ぎに帰宅。ここから仕事だが、朝練は一日を2倍に使えたようで得した気分になるし、気分は爽快だし、これは良いではないか。

サカイさん、よっしー、ありがとさんでした。

2010年3月2日火曜日

読売テレビで撮影

昨日は大阪の読売テレビで通販番組の撮影だった。
春の特番スペシャルということでメンバーも豪華で、吉本新喜劇の「こめんやしておくれやしてごめんやっしゃー」で有名な末成由美さんが右隣に座り、左隣にはケツカッチンの和泉修さんと高山トモヒロさん、さらにその横には西川きよしの娘である西川かの子さんが座るっているというなかなかの顔ぶれである。
皆さん、良い人で、撮影の合間には「この豆、旨過ぎるわ」だの、「大阪ではどこで売ってるの」だの、「このチップス驚きやわ」などと、話しかけてくれるので緊張もなく撮影ができた。途中でも、修さんが西川さんをいじったりして、どこまでもお笑いモードなのが面白かった。
仕事とはいえ、このような体験ができるのはありがたいことである。


これはスタジオの撮影風景
そして、となりでは「ミヤネ屋」が生放送。宮根さんの楽屋もすぐ隣に。


2010年3月1日月曜日

牟田学「社長業 実務と戦略」

今日は大阪読売テレビで通販番組の撮影だった。行き帰りの新幹線で表題の本を読了した。気になる部分に赤線を引き、抜き出してみた。


業績向上に直結したところに手を打たなければ、売上利益は決して増大できない。
赤字に泣いていながら、すぐ管理体制の改善や確立をしようとする社長が多い。的外れなこともはなはだしい。
会社の規則とか、制度や管理体制をいじっても、そんなことで大幅に売上や利益が伸びるはずがない。

売上こそ繁栄のすべての根幹である。

成長とは、<お客様を増やすこと>である。この重大事が分かっていない社長が多い。
成長とは、一言で表現すれば<お客様を増やすこと>である。この重大事が分かっていない。
私は、会社へ招かれたら、まず「昨年と比べて、お客様の数が増えたかどうか」を質問することにしている。

一体何が自分の会社で「一番大切なこと」なのか、それを考えて、磨かなければならない。
一体何が自分の会社で一番大切なのか、分かっていない人が多い。

質を高める経営とは、「単位当たり」を強く追求する経営のことである。
質とは、「単位当たり」を強く追求する経営のことである。

販売ネットを先に決めて、新商品をネットに合わせて作る方が、成功の確率が高い。
成功するためには、販売ネットを先に決めて、その店頭や倉庫に行って、今、どれが売れ筋か調査し、売れているものより品質やデザインや値段や機能性が優れたものを開発するという思想こそ大事なのだ。販売ネットを先に決めて、商品をネットに合わせて作る方が、成功の確率も、継続性も、はるかに高いのだ。忘れないことだ。

義理を欠かせないこと。義理は世渡りの掟、情の掟である。
情は理屈では測れない。義理人情というが、義理は世渡りの掟、情の掟である。上手に、間違いなく世を渡るためには「顔を立てる」「よく根回しをする」「相手の状況を判断する」「人前で行わない」…こういう戒めが大事である。

儲けさせてくれない得意先を、新規の儲けさせてくれる得意先と入れ替えて、質の充実を計る。
新規得意先の開拓も、ヒット商品の開発も、新規事業への参入ですら、売上の増大という目的の他に、質の充実を計るために行い続けるものである。

大切なことは、事態の予測ではなく、その事態に、取って置きの手を、打てるか打てないか、ということである。
これが最重要な課題である。
社長でも、役員でも、部門長であっても、ピンチに弱い者はリーダーとしても資格がない。

社長業の実務で一番大切なことは、社長の「考え方」を社員の隅々にまで遺伝させることである。
その便利な道具こそ事業発展計画書である。

多くの信用失墜の因は自己の側にある。即座に正す。言い訳を一切しない。鈍感な経営をしない。

厳しい状況に対応して業績を上げるためには、まず、一人ひとりを強くすることが基本である。
日報には、営業マンが訪れたお得意先にライバルが来ていたら、そのライバルが、どんな商品や売り物を持ち込んだか、値段はいくらだったのか、サービスはどうだったか、それに対して、お客様の対応はどうだったか…を書かせるべきである。

事業は、いつでも、市場が満杯状態で、競争が激しくなることを前提に戦略を立て、油断しないことが肝腎だ。
景気がいい、フォローの風だ、新商品が大ヒットだ、仕事が努力もしないで舞い込んでくる…こういう状況こそ危ないのだ。全員、油断をしないことが肝腎だ。

教えすぎて、考えることをさせなければ、人は育たない。

この難しい時代でも、元気が良い会社は、社長を筆頭に全社員がカネの臭いを強烈にさせている。
事業経営は、ボランティアではない。「儲けてなんぼ」の世界であることを、社長は片時も忘れないでほしい。
資本主義を選択し、そこに生き続ける限り、金儲けが下手な人間は、存在そのもの「劣等」だと言われても仕方がない。

「自分は運が強い」と信念すれば、必ず、強運を呼び込み、物事はその通りになって成就する。
人生は、自分が想念した通りにしかならない。死すべき境涯さえも、信念によって変えられる。