正確に言うと、忘れていたのは、“物”ではなく、“やりたい事”である。
やりたい事といっても、別に大それた事ではないのだが、突如、子どもの頃に「大人になったら、絶対に行ってみたいと思っていた場所」を思い出したのである。
子どもの頃、日曜日の夜の楽しみは「日立ドキュメンタリー すばらしい世界旅行」を観ることであった。
最後に「この木なんの木、気になる気になる~名前も知らない木ですから、名前も知らない木になるでしょう~」などという、今考えると何とも投げやりというか、名前くらい調べたら良いではないかと思えるような歌が流れる番組である。
ここに映る世界は、その当時の自分には遥かに遠い世界であった。それを、いつか行ってみたいという憧れと、やはり遠いから無理かもという切なさに、「明日から学校、面倒だな。宿題もやっていないし」という気持ちも混じりあって、子ども心にも相当に複雑な思いで観ていたものだ。
そのテレビの中の世界と、現実の世界が一致する出来事が学生の時に訪れた。
それはチベットの鳥葬場で、である。
ここでは、墓場の番人に襲撃され、こちらが危うく鳥葬になるところであったが、話がそれるので詳しいことはまたの機会に書くこととするが、チベットのラサの鳥葬場を見に行ったとき、初めての場所にも関わらず、「ここ、見たことがある!」という強い確信を持ったのだ。
それは子どもの頃に「すばらしい世界旅行」で観た光景そのものだったのである。
その時、わしは鳥葬場を実際に見たことよりも、子どもの時、ブラウン管の向こうに映っていた場所に、今自分が立っているという事実の方に感動したのである。
ここに来れたのであれば、あの時行ってみたいと思った場所のどこにでも行けるのではないか!
オーロラも見てみたいし、
死海に浮かんで新聞を読んでみたいし、
イースター島でモアイ像に会ってみたいし、
イグアスの滝の滝壺も覗き込んでみたいし、
ほんと言うと、一度宇宙空間に出てみたい…その時わしは強く心に思ったのである。
気がついたら、鳥葬場の後、あのすばらしい世界旅行の憧れの地に全く行っておらんじゃないか!
ということで、思い出したからには今からでも遅くない。
ブラウン管の向こうの忘れものを少しずつでも取りに行ってみようと思う。
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